INTPにこの世はかなり難しい

なんとか人間やってます

『Spiderman: No Way Home』感想

※ネタバレありの記事なので、未視聴の方はご注意ください。
※2021年に書いていた感想を見つけたので供養。

過去のスパイダーマン作品を (トビー・マグワイア版でも、アンドリュー・ガーフィールド版でも)どれか一作品でも見ていて、スパイダーマンが少しでも好きにな人にぜひ見てほしい!という気持ちがある一方で、モヤモヤする部分もちらほらあった。

スパイダーマンってまだ子供だよね…

今作『No Way Home』にも、ピーター(スパイダーマン)にヒーローとしての自覚を促すセリフ「大いなる力には大いなる責任が伴う」が出てくるのだが、トム・ホランド版スパイダーマンはまだ成人するかしないかの高校生だ。(ニューヨークは成人年齢が18歳)

「困ってる人を見たら助けましょう」という気持ちはたしかに美徳だが、自分にできること・できないことを判断する技術を身につけること、周囲に助けを求める技術を身につけることの方が大事ではないか? 正義感や道徳心に任せて衝動的に困っている誰かを助け続ける生活を送っていたら、むしろピーターが自滅するぞ?? と考えずにはいられなかった。

グリーンゴブリンの「お前はメイおばさん使命感に囚われているだけ、お前の道徳心はその身を滅ぼす弱点だ(うろ覚え)」という指摘は痛いところを突く正論だし、ある意味トニー・スタークよりスパイダーマン思いの的を射た助言だと思った。もっとも、グリーンゴブリンは嘲笑しているだけで、助言ではないけれど。

メイおばさんの「ピーター、困ってる人がいたら見て見ぬふりをせずに助けなさい」という言葉は、紛れもなく"良い"アドバイスだ。しかし、それはあくまでも「道に迷っている人がいたら助けてあげてね」とか「財布を落とした人を見かけたら拾って渡してあげてね」というささやかな道徳レベルの話であって、超人的な身体能力や科学技術を駆使するヴィランのおじさんたちと戦って対等に渡り合おうとしたり、「俺たちに『治療』なんて必要ない」と突っぱねるおじさんたちを説得して『治療』を受けさせるヤングケアラーの役割を引き受けることではない。

そういう意味で『Homecoming』のときにメイおばさんの言っていた「ああいうこと(銀行強盗)に巻きこまれそうになったら、走って逃げなさい」をトム・ホランド版ピーターにこそ実行してほしい。そして安全な場所から警察に通報するとか、大人に相談するとかしてほしい……トニー・スタークに連絡するとか……ドクター・ストレンジにチクるとか……大人の視聴者的にはそういう報連相をしっかりしてほしいわけ……もっと大人を頼ってほしいわけよ……瓦礫の山に埋もれて身動きが取れなくなってから「助けて!」って叫ぶんじゃなくてさ……。

ただ『Homecoming』を観ていて気づいてしまったのだが、トム・ホランド版ピーターは帰宅時にメイおばさんに呼びかけても不在だし、ハッピーに電話をかけてもあまり丁寧に対応してもらえないし、トニーはピーターの話に上からかぶせてきて自分の話したいことばかり優先するし、ドクター・ストレンジは一を聞いたら十を前提に話を進めて会話にならないしで、むしろ敵のおじさんたちの方がよほど真面目にピーターの話を聞いて会話してくれている節がある。サンドマンは邂逅5秒でエレクトロ拘束に協力してくれるし、エレクトロは「別のユニバース?道理で納得~!」とすんなり話を聞いてくれるし。普段周囲にいる同ユニバースの大人たちがいかにピーターの話を聞いてくれないかって話ですよ……。

あとドクター・ストレンジはちゃんと状況確認してから魔術を使った方が良いと思う……もっとしっかり聴き取り調査をしてから解決策を提示した方が良いというか……安易にオモチャ(魔術)を子供に与えるからあんなことになるのでは……?トニー・スタークが安易にオモチャ(スターク社製スーツ)を与えて『Homecoming』のような状況に発展したのと一緒で……まあドクターストレンジの場合はオモチャを与えるっていうより奪われてるんだけど……。

というようなことをつらつらと考えながら、もう一点気になったのが、トム・ホランド版ピーターの「困ってる人がいたら助けなきゃいけない (運命に抗わなきゃいけない)」という、気持ちと根性だけで『No Way Home』の招かれざる客人問題を解決しようとする姿勢と、ドクター・ストレンジの「ヴィランたちはこのまま元の世界に返そう (運命を受け入れよう)」という、最小限のリスクと労力でまあまあイイ感じに事態を収束させようとする姿勢の違いである。

他者の命をリスクにさらす責任

ドクター・ストレンジの「最低限のリスクと労力で解決できるなら、最低限のリスクを労力で解決すればいいし、余計なリスクを負う必要はない (最善最良ではないかもしれないが、低リスクでまあまあ良い結果を得られる解決策を選ぼう)」という考え方は、彼の脳外科医としてキャリアに強い影響を受けていると思う。また、一人の大人として、自分の能力の限界とリスクの取り方のバランスが上手だと感じた。

一方で、スパイダーマンの「目の前で死にそうになってる人がいたら、それが例えヴィランであっても、僅かでも助けられる可能性があるなら見殺しにすべきではない (ハイリスクな方法でも、最善最良の結果を得られる解決策を選びたい)」という考え方は、王道なヒーローの在り方としては100点満点でも、一か八かの逆転を狙うギャンブラーの発想である。「成功するか分からないけど、一か八かやってみよーぜ!」みたいな。

もし私がドクター・ストレンジだったら「もう確実に解決できる方法は分かっているのだし、わざわざ余計なリスクを負ってまで他の世界のヴィランたちを『治療』する必要性も、『治療』を受けるよう説得する必要性もない。『治療』された彼らが元の世界にどのような影響を及ぼすのかも不明だし、本来の運命の流れに合わせて修正するのが一番安全だ」と強めに迫ってピーターを泣かせていたと思う。

また、色々と謎の多い未知の特殊能力者であるヴィランたちを地下牢から出すということは、無関係な一般市民の命を危険にさらすことと同義だ。ピーターは果たしてその責任を負えるのか?全く負えないし、ドクター・ストレンジでもそんな責任は負えないだろう。それに『治療』によってヴィランたちの運命を変えてしまえば、トム・ホランド版ピーターはいくつかのユニバースに取り返しのつかない変更点を加えてしまうことになる。インフィニティ・ストーンほどではなくとも、元の世界線の流れから分岐した新たな世界線の発生が他のマルチユニバースに与えるかもしれない影響について、ピーターはいったいどこまで責任を負えるのか?

「ヴィランたちはこのまま元の世界線に返す」「スパイダーマンがピーター・パーカーであることをこの世界の者たちに忘れさせる」というドクター・ストレンジの外科手術的な対応は、日常的に他者の命を預かり手術を行ってきた医者としての意識や経験と地続きだ。ドクターストレンジの提示した最低限のリスクと労力で済む解決策は、自分たちの属するユニバースを守るために最善の自衛手段であると同時に、手術を受ける患者たち(この場合はヴィランたちと彼らが本来属するユニバース群)に負わせるリスクも最低限で済む。

ピーターは作中で何度も「fix (治す)」という言葉を繰り返していたが、ピーターの無邪気な発言を聴いたら、ドクター・ストレンジは尚更怒ったと思う。『治療』で身体的にも精神的にも一番リスクを負うのは患者となるヴィランたちだし、『治療』方法が見つからなかったとき、『治療』しても元の身体に戻れなかったときに一番落ち込むのも、「もしかしたら自分は『治る』のかもしれない」と希望を抱いていたヴィランたちであって、『治療』を施すピーターではない。

『No Way Home』はピーター(スパイダーマン)の主人公補正とスターク社の科学技術力の粋と、ピーター2・ピーター3の協力によって、ヴィランたちの『治療』方法を発見・完成させることができたから結果オーライだけれど、ヴィランたちの『治療』方法が一切不明の段階で「元に戻る方法があるかもしれない」と不確かな希望をちらつかせる行為は、元外科医として腹に据えかねるものがあるだろう。

マーベルヒーローとギャンブル適性

スパイダーマンとドクター・ストレンジの対立は、そのまま子供/大人の対立であり、ヒーローとしての資質があるスパイダーマン/資質がないドクター・ストレンジという対立にもなっている。だが、この対立軸の作り方は反知性主義やポピュリズムと親和性高く、対立構造としてあまりうまくないように感じた。

マーベル映画のヒーローたちは、例えハイリスクな方法であっても、正義や道徳心を理由に「成功するか分からないけど、一か八かやってみよーぜ!」と賭けをして逆転勝利を掴むというのが王道の展開である。しかし一か八かの賭けをするには、ちょっとおバカになって賭けのリスクの大きさに目を瞑る必要がある。ドクター・ストレンジのような聞き分けが良すぎる現実主義者では、殊にマーベル・ユニバースにおいては「本当のヒーロー」にはなれないのだ。

そして、こういうギャンブル性の高い王道のヒーロー物語は「本当に大事なことを分かってるのは、その道のプロよりもむしろ素人の自分たちだ」という考え方と相性が良い。実際には主人公のエゴと情緒を優先した結果、当初よりも圧倒的に状況が悪化しているにもかかわらず。

メイおばさんの死はその一例で、冷静に考えたらバッドエンドだし、何よりメイおばさんの死に関しては不可抗力の巻き添えでですらなく予見され得た巻き添えなので、何「少年が大人になるための通過儀礼」みたいな成長譚のフリしとんねん、と個人的には思っている。子供の主人公を「宿命を負った悲劇のヒーロー」として消費することへの違和感とも相まって、まったくもって釈然としない。

オマケ:1400万605通りの中の1通りに寄せるのは「賭け」か?

ドクター・ストレンジは『Infinity War』で唯一サノスを倒すことに成功した世界線を見つけたが、あれは「模範解答を見つけたので、その路線で進めば十中八九勝てますね」というだけの話で、実は賭け要素がほとんどない。サノスにタイムストーンを渡した時点でトニー(アイアンマン)の死は既定路線であり、あとはトニーが模範解答の世界線と同じ選択をするようにどう誘導するか、という問題にすぎないからだ。

1400万605通りのうち1つの世界線でしか成功例がなかった原因の一つは、おそらくサノスとの戦いに消極的だったトニーが最後の最後まで「家族とすごす時間」を手放せなかったことであり、裏を返せば「トニーが生きることを諦めれば勝ち確」ということだ。そして、残念ながらトニーもドクター・ストレンジ同様に、自分の生に執着してまで勝ち確路線を捨てられるような人間ではなかった。*1

唯一の勝利方法を教えてしまえば、トニーはどうにかして家族と一緒に暮らす方法はないか=自分が生き残る方法はないか模索するだろうし、僅かでも可能性があるならば、自分が生き残れる形でサノスに勝とうとするだろう。僅かな可能性にかけてでも、ヴィランたちが元の世界でも生きて暮らせるように『治療』しようとしたピーターのように。

だからこそドクター・ストレンジは「一通りの道しかな」い状況で「他に道はなかった (過去形)」にも関わらず、一通りしかない成功例と同じ道を進むための方法をトニーに教えることができない。トニーが自分の生存率を上げようとすればするほど、サノスとの戦いに勝利する確率が下がるからだ。

ちなみにドクター・ストレンジが「成功するか分からないけど、一か八かやってみよーぜ!」をできるようになるのは『Multiuniverse of Madness』になってからである。第一作目の『Doctor Strange』(2016年)から『Avengers: Infinity War』(2018年)、『Avengers: End Game』(2019年)、『Spiderman: No Way Home』(2021年)、『Doctor Strange in the Multiuniverse of Madness』(2022年)と五作目にしてやっとだが、「成功するか分からないけど、一か八かやってみよーぜ!」マインドは患者の命を預かる医者とは基本的に相性が悪いので、ヒーロー業界への適応に時間がかかるのは仕方ないよね、という感じがする。

 

〇『Infinity War』
・”How may we win?” "One."

youtu.be

・”Tony, there was no other way.”

youtu.be

〇『End Game』
・"None of you could survive."

youtu.be

・"If I tell you what happens, it won't happen."

youtu.be

・(Only one out of 14,000,605.)

youtu.be

〇『Doctor Strange』
・"It's not about you."

youtu.be

*1:「生きることを諦めれば勝ち確」という点では、『Doctor Strange』のドルマムゥ戦もまた「生きることを諦めれば勝ち確」の戦いであり、『Multiuniverse of Madness』に出てきたイルミナティ所属のドクター・ストレンジもまた、勝利のために生きることを半ば諦めたヒーローであった。エンシェント・ワンが言うように、It's not about you.なので。