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『ヴァチカンのエクソシスト』感想

※ネタバレありの記事なので、未視聴の方はご注意ください。

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『ヴァチカンのエクソシスト(原題:The Pope's Exorcist)』を見てきた。ローマ教皇直属の悪魔祓い師が教会内の政治闘争に巻き込まれたり、古い教会の謎を解いたり、由緒正しきいにしえの悪魔を相手に七転八倒する活劇映画である。IT職種でシステムの運用保守をしている人は、かなり共感度が高いんじゃなかろうか。(「我々は仕事をうまくやりすぎた」……)

途中で怖くて2回くらい目をつぶっちゃったけど、私でもなんとか見られる範囲でスプラッターは少なめだった。生傷系が苦手な人は注意が必要な映画かもしれない。

レギオンと豚の元ネタ

ストーリー冒頭でアモルト神父が名前を聞き出したレギオン(英語だとリージョン)という存在は、新約聖書の「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」、及び「ルカによる福音書」に登場する有名な悪霊(あくれい)である。聖書を多少読んだことのある人は、たぶん途中から「わ……ぁ……ァ……っ」と涙目のちいかわみたいな気持ちだったと思う。

とはいえ、非キリスト教圏の人間には基本的に「レギオン?どちら様?」状態だと思うので、聖書の中でも特にレギオンについての記述が詳しい箇所を紹介したい。

ルカによる福音書:第8章第26節~第37節
一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取り憑かれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身につけず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、喚きながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。

この人は何回も汚れた霊に取り憑かれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが「名は何というのか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちには出さないようにと、イエスに願った。

ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れが餌をあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖に雪崩れこみ、溺れ死んだ。

この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足元に座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取り憑かれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサの人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。

 

「マタイによる福音書」だともう少し自然な流れで豚の群れが登場するけど、「マルコによる福音書」と「ルカによる福音書」は唐突に豚が出てくるので毎回笑ってしまう。きっと畜産が盛んな地域なのでしょう。

村のおじさんがアモルト神父に「豚を連れてきなさい」と指示される前から家の軒先で豚とともに待機していたのは、青年に取り憑く悪しき存在の乗り移り先が必要だと考えていたからではないかと思う。豚を撃ち殺すためにアモルト神父の背後で猟銃を構えていたのも、レギオンの乗り移った豚の末路を意識してのことだろう。

しかし、祓うべき悪魔が青年に取り憑いていない以上、アモルト神父の仕事は村人たちに悪魔が去ったと認識させ、青年を適切な医療支援につなげることである。発作を起こしていた青年も含めて、信心深いキリスト教徒たちに「悪霊の取り憑いた豚が死んだことで、悪霊は村からいなくなった」と認識させることができれば、あとは適当に理屈をつけて医師の診察を受けるよう説得すればいいのだ。例えば「心身に不調のある者は悪魔に狙われやすく、再び取り憑かれるリスクがある。明日にでも別の医者に相談して、診察してもらった方が良い」とかなんとか言って。

映画版のアモルト神父は派遣された先々で、悪祓いの儀式を始める前に「医者には見せましたか?」と必ず質問する。「医者に見せたのに、それでも説明のつかない現象が起きているのですね?」と。また、「悪魔祓いの98%は精神疾患で医療につなげれば対処可能である」とも発言している。医学的アプローチで改善する症状や体調の変動は起きるべくして起きた科学的変化であり、創造主たる神の御業による奇跡とは区別されなければいけないからだ。

そういう意味で、アモルト神父がやっていることは、調査の対象が神の御業か悪魔の仕業かという違いだけで、フランスのルルド医務局(と国際的NGO団体のInternational Medical Committee of Lourdes)がやっている活動とほぼ同じである。

実在のアモルト神父と創作のアモルト神父

アモルト神父の名前であるカブリエーレは、大天使ガブリエルの名前を由来としている。聖母マリアの受胎告知の場面に描かれることで有名なこの大天使は、洗礼者ヨハネの誕生を父親のザカリアに予告したり、ラッパを吹いて世界の終末を人々に伝えるという重要な役割も持つ。

創造主の代わりに大切なメッセージを伝達する存在であることから、大天使ガブリエルは報道やジャーナリズムといった分野を守護する天使とも言われている。映画版のアモルト神父が自分の職業の一つにジャーナリストを挙げていたのは、おそらく名前からの連想と、例え半分以上フィクションのファンタジー映画であっても、カトリック教会の組織的性犯罪について触れずに娯楽作品化することは倫理に反する、という製作陣の判断なのだと思う。

なお実在のアモルト神父は回想録や悪魔祓いに関する話の方が有名で、カトリック教会の性犯罪スキャンダルについて積極的に発言していたかというと。。。とりあえず、Wikipediaに記載されるほど積極的に発言したわけでも、社会に大きな反響を呼び起こすような発言をしたわけでもないようだ。

映画内でアモルト神父たちがアスモデウスと対峙した古い建物は、スペインのカスティーリャ地方にある聖セバスチャン修道院という設定になっている。*1言わずもがな、聖セバスチャン(聖セバスティアヌス)が由来だが、聖セバスチャンはキリスト教界における最大手のゲイ・アイコンと言っても過言ではなく、磔刑に処されるキリストに次いで裸体を、それもやけにエロティックな雰囲気で描かれているのではないか?と言われるほど、ルネサンス期以降のヨーロッパで好まれた聖人である。*2

アモルト神父とトマス神父が互いに互いの告解を聞き入れ、赦しを乞い、また赦しを与え合う行為は、必ずしも恋愛感情や性愛を起点とした関係性ではない。しかし、互いの精神的苦痛や後悔を馬鹿にしたり矮小化したりすることなく、互いの心理的安全性・安心感に配慮した人間関係を構築する様子は、inclusive masculinityやcaring masculinityをかなり意識していると感じた。まあロザリアもアデラも冷蔵庫の女で、人間の女の姿を模した悪魔を白人男性が成敗するありがち展開になってるあたり、モヤる要素はしっかりあるんだけど……。

モヤるといえば、異端審問による非キリスト教徒の迫害を悪魔の仕業ってことにするのもけっこうモヤるというか、「医学的にも科学的にも説明不可能な邪悪な存在」に責任転嫁するは流石にダメじゃない?と思った。ただ、スペインにおける異端審問の歴史の中でもカスティーリャ地方はちょっと特殊らしいので、スペインの異端審問やカスティーリャ地方の歴史に詳しい人による解説がそのうち出てくると嬉しいな、と期待している。

ちなみに実在のアモルト神父は存命中に、同性愛をヨガやフリーメイソン、『ハリー・ポッター』と同じく、人々を誤った道へ誘う悪魔主義の一つだと考えており、2010年代には「同性愛は自然に反している」「同性愛者とは悪魔の提案を遂行する者である」などと発言してイタリア国内で物議を醸していた人物でもある。

物語の舞台となる修道院が聖セバスチャンの名を冠しているのは皮肉というか、製作陣は意図的ににわざとやってるんだろうな、と気がする。アモルト神父にインスピレーションを受けて映画を作ったけど、アモルト神父を全面的に肯定してるわけじゃありませんよ、みたいな。

*1:作中に登場する聖セバスチャン修道院は現実には存在せず、映画の撮影はアイルランドにあるお城で行われた。

*2:聖セバスチャンは3世紀ごろ、古代ローマの時代にローマ皇帝が処刑したキリスト教徒で、中世ヨーロッパにペスト(黒死病)が流行すると、木に括りつけられて身体に何本もの矢が刺さっている姿で描かれることが多くなる。ペスト患者の身体に現れる黒い斑点が矢傷に似ていることから、皇帝に残忍な方法で処刑されても信仰心により生き延びたという逸話にあやかって、聖セバスチャンは疫病(特にペスト)から人々を守る守護聖人として崇められるようになった。

ただちょっと(ちょっと?)ルネサンス期以前と違って着衣の老人ではなく肉感的な半裸の美青年として描かれるようになったり(ちょっと??)、身体に矢が何本も刺さっているのに恍惚とした表情をしていたり(痛みを感じていない描写だヨ)、うっとりと天を見上げていたり(神への信仰心の現れだヨ)、股間が隠れるか隠れないかギリギリのラインで素肌をさらしていたり(身体に刺さった矢の傷跡からペスト患者の身体の黒い斑点を連想させるための描写だヨ)、諸々の要素が重なって、19世紀ごろからセクシャルで官能的なゲイ・アイコンとして明示的に扱われるようになったという背景を持つ、非常に由緒正しく歴史の古い守護聖人である。本当だヨ!